高知空襲 焼け焦げた母―「国」と「民」の物語 民撰議院設立建白書150年【第5部 破滅の総力戦(6)】
高知大空襲で焦土と化した街並み(高知市内、1945年7月7日撮影)
日本は南方で負け続けた。真珠湾攻撃から半年で、支配地域や戦線を維持できなくなった。戦線を縮小した「絶対国防圏」を御前会議で設定したが、それも米軍に突破された。
1944(昭和19)年7月、サイパン島陥落。上陸した米軍は飛行場を整備しB29を配備した。無着陸で5千キロ飛べる最新鋭の爆撃機。日本本土が射程距離に入った。
同年11月、サイパンやグアムを出撃したB29の編隊が東京の軍需工場を爆撃。目標だけを狙う精密爆撃だったが、米軍はこれ以後、無差別爆撃に切り替える。
45年3月の東京大空襲では約300機のB29が襲来。雨のような焼夷(しょうい)弾を浴びた下町は一晩で焼け野原と化し、約10万人が命を奪われた。
米軍のカーチス・ルメイ少将は無差別爆撃の意義をこう語っている。
〈男性、女性、子供を含む全ての国民は、航空機や兵器の製造に携わっている。家庭には工場があり、家族は家庭で軍需品を生産しており、それは家庭内の製造ラインである〉(源田孝著『アーノルド元帥と米陸軍航空軍』)
B29は全国を襲った。
市街地を無差別で焼き払い、老若男女を殺した。…
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高知新聞 2025-06-12 [
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