消えゆく「余呉の天女」 35歳の絶筆 三橋節子美術館で展示
【滋賀】がんのため利き腕の右腕を失っても、左手で描き続けた。幼い子らを残し、35歳で亡くなった日本画家の三橋節子(1939~75)。死と向き合い、絶筆となった「余呉の天女」が10年ぶりに、大津市小関町の三橋節子美術館で展示されている。
三橋は京都市出身。京都市立美術大学(現・市立芸術大学)で日本画を学び、主に野草を題材に描いた。68年に結婚、大津市長等に住み、70年に長男、71年に長女を出産した。だが右肩にがんが見つかり、73年3月に右腕を切断した。
「手術後、節子はひどく落ち込み、私や子どもの顔も見たくないと布団の中に潜り込んでいました」
夫の日本画家、鈴木靖将さん(81)は当時を振り返る。
妻を病室から散歩に連れ出し、病気が深刻であることを告げたうえで、「病気のことは医師に任せよう。右手をなくしてもお前は画家だ。俺の手を合わせれば3本ある。死をテーマに描いたらどうか」と励ました。三橋は黙ってじっと聞いていたという。
三橋は左手で草花をスケッチする練習を始めた。そして手術からわずか3カ月後の73年6月には、小さな花を鈴なりに咲かせる花瓶の「菩提樹(ぼだいじゅ)」(6号)を描いた。
鈴木さんが紹介した近江の昔話を題材に、大作にも取り組むようになった。
73年9月、泣きやまない我が子に自分の目玉を与え、琵琶湖に帰る母親(竜女)の物語「三井の晩鐘」(100号)を描き上げる。74年9月には、激流に突き落とされた娘が多くの野草に助けられた物語「花折峠」(100号)を手がけた。水の中の娘の幸福そうな表情が印象的だ。
この間、三橋は肺にがんの転移が見つかり再手術した。
回復の見通しのないまま退院していた74年11月、家族で長浜市の余呉湖に1泊旅行に出かけた。鈴木さんは夜明け前、肌寒さに目を覚ますと、妻が窓を開け、じっと暗い湖を見つめていたという。
1カ月後に再入院。三橋はノリウツギの白い花を描いたまま中断し自宅に残してあった絵を病室に持ってきてもらった。ベッドに座り、イーゼルを立てた。
絵に向かうのは1日15~20分程度が限界だった。それを5日間ほど続け、「描けた」と言って筆を置いた。
「体力、気力を振りしぼっていた。泣き言は口にしなかったが、死は頭の中から離れなかったと思う」と鈴木さん。
20号の作品は75年1月に完成した。
天女が暗い空を舞い、湖岸では子どもがうつろな表情で空を見上げ何か言いたげだ。天女が振り向いて手を振る。その姿はいまにも消えそうだ。
描いたのは余呉湖が舞台の「余呉の天女」だ。
漁師が湖岸の枝に掛けてある羽衣を見つけ、持ち帰ろうとすると、「それがなければ星の国へ帰れません」と水浴びしていた天女が訴えた。漁師は天女を妻に迎え、子が生まれ、仲むつまじく暮らしていた。ある日、天女は羽衣を見つけ、夫や子の名前を呼びながら空の中に消えた――。
1カ月後の2月、三橋はこの世を去った。鈴木さんは妻の顔を素早く写し取った。
後日、鈴木さんははっとした。
三橋が描いた「三井の晩鐘」の竜女、「花折峠」の娘、そして絶筆となった「余呉の天女」の顔が鈴木さんがスケッチした顔とそっくりだった。
名もないような野草や子どもを丁寧に描き、小さな命を慈しんできた三橋の企画展「絶筆・余呉の天女への軌跡」は27日まで。京都府所蔵の「余呉の天女」など6点を含む絵画27点を展示している。月曜休館(21日は開館、22日休館)。問い合わせは同館(077・523・5101)へ。
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滋賀:朝日新聞デジタル 2025-07-01 [
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