質問「競走馬のその後を知り人間のエゴイズムを感じています」 - 我知(がち)ーお坊さんに聞いてみる(2025年7月2日)
【質問】数年前から、競走馬を擬人化したゲームを通じて馬や騎手の織り成すドラマに魅了され、スポーツとしての競馬に熱中しています。
ところが最近引退馬についての本を読み、競走馬の多くが天寿を全うせず屠殺(とさつ)されていることを知りました。現役中は「ヒーロー」として祭り上げられる馬たちが、用済みになったら食肉扱いされるという現実に、人間のエゴイズムを感じています。
競馬も、それを見て楽しんでいる自分も、馬を虐げる悪なのでしょうか。それとも牛や豚を食べながら好きな動物にだけ心を痛めること自体おこがましいのでしょうか。(30代男性)
【回答】堀内 瑞宏(秋篠寺住職)
【我知なヒント=現場にある馬への愛情を信頼し覚悟を見守りましょう】
人間社会の中で他の生き物をどのように扱うかを、人間本位で決める社会的なエゴイズムは当然あります。質問者さまが気になるのは「栄冠馬であっても食用肉になる」その人間のエゴイズムに、無自覚ながら自分も加担していた事実に気づいたことでしょうか。
しかしそれを即座に悪と断じるのもまた極端な話かと思われます。なぜならその結論だけでは、栄光だけを見ていた質問者さまが今度は陰の部分しか見なくなっただけに過ぎないからです。
この話の本質は、「質問者さまが競馬場で見ているのは、競走馬として生まれた馬の生涯の一場面でしかない」ことに気づけなかったことではないでしょうか。われわれの見る競走馬とは馬主、牧場関係者、厩舎従業員、トレーナーなどさまざまな立場の人に支えられ育てられ世に出されます。おそらく関わる全ての人が、馬がどのような末路をたどるかを知りながらも、です。
それゆえに種付けや出産死産、親離れ、調教、不意のけがや治療などに全力で携わり世話をする人たちの、その心中の複雑さが一介の競馬ファンのそれとは比べ物にならないことは想像するに難しくありません。ですから極論としての善悪はさておき、馬の死をも背負って世話する人たちのその覚悟を、小さな嫌悪感で汚すことは控えるべきではないかと愚考する次第です。
確かにただの享楽として見る競馬が罪深いということは分かります。また昨今の世界の潮流として動物を扱う競技、行事はこれから少なくなってゆくのでしょう。だからこそ完全に失われるその時までは、関わった人たちの流す汗と涙に敬意を持って臨むべきではないでしょうか。
俗世坊主の私見としては、競馬を見る側の人の中にもただ熱狂するだけではなくその陰で弔い祈る人たちがいるということを信じたいと思います。質問者さまも、その生涯を知ったが故にさらに輝く馬たちを見届けつつ、一方で弔いと感謝の念を胸中に持ち続けていただければと思います。
【我知(がち)ーお坊さんに聞いてみる】
奈良の僧侶が悩み相談や質問に答えるコーナー。お坊さんに相談したい、 仕事や人間関係、恋の悩み、人生相談や信仰・仏教の教え、お寺への質問などが対象です。お坊さんへの質問を募集しています。採用は弊社と回答者で判断し、掲載の有無や掲載日についてお答えすることはできませんのでご了承ください。
【回答者】
興福寺 辻 明俊さん
金峯山寺 五條 永教さん
秋篠寺 堀内 瑞宏さん
宝山寺 東條哲圓さん
【掲載日】
毎月第1、3水曜日「暮らし」のページ・奈良新聞デジタル
奈良新聞 2025-07-02 [
Edit / 編集]