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病気平癒で勅号賜った古刹 - 朝護孫子寺・大和古社寺巡礼028

朝護孫子寺(信貴山寺)

※社寺名は、基本的に現在使われている名称によりました。
※( )内は、神社は『延喜式』神名帳による表記、寺院は史料にみえる表記です。
※記事中の写真の無断転載を禁止します。

 
 聖徳太子が寅(とら)年寅の日の寅の刻に毘沙門天王を感得し、自らその尊像を刻んで本尊としたことに始まり、醍醐天皇の不予にあたって毘沙門天王の御加護によって全快、朝護孫子寺の勅号を賜ったと伝える古刹(こさつ)。
 

信貴山朝護孫子寺の本堂を望む

 
エリア/生駒郡
ご本尊/毘沙門天王
ご利益/家内安全・金運上昇・商売繁盛・厄除け開運
宗 派/信貴山真言宗
 
 
縁起
 欽明天皇の時代に百済から仏教の公伝がありましたが、仏教の受容の可否などをめぐって崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が対立することとなりました。その後の敏達天皇の時代に、聖徳太子が物部守屋との戦いに際して戦勝祈願をして毘沙門天を感得(寅年寅の日の寅の刻と伝えられます)。その祈願がかない、自ら刻んだ毘沙門天王の尊像を本尊として伽藍(がらん)を創建し、「信ずべき貴ぶべき山」と称えられたことが信貴山・朝護孫子寺の始まりと伝えられています。
 
 平安時代中期には、一時荒廃していた境内を命蓮上人が復興し、中興の祖とたたえられました。また命蓮上人は醍醐天皇の病気平癒のために加持祈祷(きとう)を行い、無事に回復された天皇から「朝廟安息 国土守護 子孫長久」の勅文を賜り寺号としたと伝えられています。
 
 最盛時には66の塔頭(たっちゅう)寺院を擁し、本尊の毘沙門天王は戦の神でもあったので楠木正成や武田信玄などの武将からも篤(あつ)く信仰されました。
 
 戦国時代には信貴山の雄岳に信貴山城が築かれ、後に松永久秀が織田信長との戦いに敗れた際には、多くの堂塔が失われました。しかし豊臣秀頼が自らの祈願所として本堂及諸堂を再建し、江戸時代以降には庶民の信仰も集めて今日に至っています。
 


「大和国信貴山朝護孫子寺境内之図」(明治30年代/奈良県立図書情報館蔵)
出典:同館まほろばデジタルライブラリー


 
 「大和国信貴山朝護孫子寺境内之図」(明治30年代)は石版による精密な信貴山の境内図で、本堂や多宝塔のほか千手院・成福院・玉蔵院の塔頭が描かれています。光明院は現在、本坊(寺務所)となっています。
 
 
ご本尊
毘沙門天王
 毘沙門天王は、四天王(東方守護の持国天・南方守護の増長天・西方守護の広目天・北方守護の多聞天)のなかの多聞天の単独時の名前で、七福神の一柱です。信貴山は毘沙門天王が日本で最初に出現されたと伝えられる聖地です。
 
 
境内参拝・気が付かなければ…
※????は撮影ポイント
 
千体地蔵 ????
 旧・東信貴ケーブル「信貴山」駅跡である奈良交通「信貴山」バス停から参道を進むと、右手に千体地蔵が迎えてくれます。室町時代中期から江戸時代の石仏がお祀(まつ)りされており、その光景は圧巻です。

さまざまな表情を持つ石仏

 
仁王門 ????
 仁王門は宝暦10(1760)年に再建され、明治時代に修理が行われた後、大正時代に境内の西側から現在地に移されました。
 
 仁王像が威厳あるお顔で迎えてくれます。反対側の狛犬(こまいぬ)は、天を仰ぐリアルな姿。

大きな草鞋も掛かる仁王門



リアルな狛犬


 
猪上神社
 仁王門をくぐって進むと右手の丘の上に、朝護孫子寺の鎮守社・猪上神社が鎮座しています。延喜式内社で、ご祭神は天足彦命・国押人命の2柱とされていますが(第5代孝昭天皇の皇子に天足彦国押人命があります)、朝護孫子寺中興の祖・命蓮上人ゆかりの霊猪を祀(まつ)る、また水の神を祀る等とも伝えられています。
 
 「信貴山猪上大明神」として崇敬を集めた神社で、明治時代の神仏分離までは本堂の近くにお祀りされていました。

延喜式内の古社・猪上神社

奈良新聞 2025-07-19 [Edit / 編集]

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