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シリーズ戦後80年③中国人の強制連行 鉱山での過酷な労働を強いられる 岩手・釜石市

戦後80年に合わせて今週のニュースエコーでは、シリーズで戦争の記憶と平和の大切さを伝えています。3回目の13日は、戦時中、中国から人々が釜石に連れてこられ、鉱山での過酷な労働の末に多くが亡くなりました。
これは岩手県釜石市にある「日中永遠和平の像」です。この像は戦時中に釜石鉱山に強制連行され過酷な労働の末に亡くなった中国人を慰霊するため1973年に建てられました。
この日は、高校生が企画した市内の戦跡を巡るガイドツアーが行われました。
(ツアーを企画した佐藤凛汰朗さん)
「戦争を学んだり平和学習をする際っていうのは、被害と加害の両面から平和について考えないといけないと思う」
1946年に外務省が作成した報告書によれば、戦時中の労働力不足を補うため終戦までに全国135か所の事業所に、約3万9000人の中国人が「移入」と称して連れてこられ、約17.5パーセントにあたる6830人が死亡したとされています。
釜石鉱山には1944年の11月から1945年の1月にかけて288人の中国人が連行されそのうち124人が死亡したと記録されています。死因は多くが肺炎や敗血症、感染症などによる病死だったとされています。戦時中、釜石警察署から鉱山に対して・看守として警察官が昼夜常駐すること・中国人の入浴施設は必要なし・面接は一切禁止するなどの指示が出されていたことが判明しています。
中国人の強制連行の歴史を長年、研究する一橋大学の田中宏名誉教授は、戦時中に中国人を厳しい監視下に置いた背景を次のように話します。
(田中宏名誉教授誉)
「日本のことを中国側にスパイしないかとか、そういうふうに見る。いつも中国人の動きを在日中国人が神戸とか横浜とかある程度まとまっているところは
別途、内務省の特高(警察)がチェックしている。外から来る人は中に何がいるか
分からないわけですからそれがあったんじゃないかと思います」
戦争に関わる資料を保管する釜石市の郷土資料館です。
(釜石市文化財課・小笠原太課長)
「残念ながらこちらには確たる資料はないですね」
釜石市には戦時中の中国人の強制連行を伝える記録や資料は残されていません。そんな中、戦時中に中国人を見たという人と会うことができました。釜石市の佐野圓次郎(さの・えんじろう)さん(99)です。佐野さんは1943年から終戦まで釜石鉱山で機械工として働いていました。
(記者)
「中国人の人を見たことはありますか」
(佐野圓次郎さん)
「あります。中国人は坑内の仕事をやってましたね。ズボンというのは女の人が履いているようなモンペのようなのを履いていた。黒の上着、上着というのは服じゃ
なく着物のようなもの」
佐野さんが中国人を見たのはたった一度だけでした。
(佐野さん)
「宿舎とか待遇とかそういものはぜんぜん聞いたこともない。中国人がそんなに釜石鉱山にいたということも分かりませんでした」
佐野さんの証言からも中国人が厳しい監視下に置かれていることが分かりました。
釜石市戦没者追悼式
(釜石市・小野共市長)
「犠牲となられた方々の中には外国人の方々もおられました。遠い異国であるこの釜石で病気や艦砲射撃などにより無念にもその尊い命を落とされた方々もおられたことを忘れてはなりません」
あれから80年の時が流れました。釜石に建つ「日中永遠和平の像」彫像の右手は生きて帰ることが叶わなかった中国の方角を向いています。

IBC岩手放送 2025-08-13 [Edit / 編集]

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