あの日から、神戸と共に ヴィッセル支えた親子がみた「不変の思い」
サッカーJ1のヴィッセル神戸が8日、リーグ連覇を決めた。阪神・淡路大震災から30年の節目を翌月に控えた本拠で迎えた歓喜の瞬間。クラブを支えた親子が、創成期からの思いを語った。
1995年1月17日、発足したばかりの神戸の初練習が予定されていた。強化部長だった安達貞至(さだゆき)さん(86)は、選手獲得のためポルトガルにいた。
電話が鳴った。「神戸が大変なことになっています」。テレビには燃え上がる街、倒れた高速道路が映っていた。頭の整理が追いつかない。
予定をキャンセルし帰国した。選手やその家族の無事は確認できたが、グラウンドはがれき置き場となった。震災で経営不振に陥ったメインスポンサーの撤退が告げられ、ミーティングで選手は声を上げて泣いた。貞至さんの目からも涙がこぼれた。
そのとき、スチュアート・バクスター監督(当時)が言った。
「泣いている場合じゃない。市民の期待に応えるため、練習をしよう」
クラブの前身の川崎製鉄サッカー部から岡山県にあるグラウンドと寮を借りた。貞至さんは岡山から神戸に通い、企業に頭を下げて活動資金などの支援を求めた。2カ月で車の走行距離は7千キロを超えた。
神戸に戻ってからは練習場所を転々とした。時には場所が用意できず、海岸を走った。その年の5月、Jリーグの下部にあたるJFLでの初公式戦では、ユニホームが足りず、ベンチの選手は油性ペンで背番号を書いたシャツを着た。
■忘れられない、仮設住宅でかけられた言葉 忘れられない出来事がある。
練習中、隣接する仮設住宅に…
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兵庫:朝日新聞デジタル 2024-12-08 [
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