一番電車走行がやりがい 内緒で東京へ 天職に出合う 小泉 ケイ子さん(75) 新幹線軌道の整備担う 神奈川県在住
母の求めに応じて手のひらを目の前に広げると、母はこう話を切り出した。指の1本1本をきょうだいに例えて「指の長さはみんな違うでしょ。一番背の高い中指は中心で、ほかのきょうだいを支えてもいく」。何ものにも物おじせず、くじけない気質。母は見込んでいたか。「あなたが中指」。託すように伝えられた言葉が今も記憶に残る。
幼少の頃は物々交換が主流だった。食べてゆくのは何とかなるが「とにかくお金がなかった」。小中学校を卒業すると村を旅立つ。それを前に言い出せないことがあった。学校の給食費の滞納だ。話しそびれる態度に母が気づき、打ち明けると借財で隣近所に助けを求めた。
助け合いの精神「ゆいまーる」が根強い村とはいえ人目は気になる。隠れるようにあぜ道を歩き隣近所を訪ねる母の後ろ姿が、草木の合間から見えては消える。「その姿を見るのがつらかった」。自らが稼ぎ頭になるとそのとき覚悟した。お金の苦労に見舞われる境遇が身に染み、今も母の姿が脳裏に浮かぶたび当時の思いがこみあげる。
伊是名村の出身者にとってオキコは特別な会社だ。社長を務めた村出身の仲田睦男氏は村の子弟を厚遇した。「学問の大切さを心得ていて、昼間は働いて夜は定時制高校へと通わせて学びを奨励した。伊是名村に優秀な人材が多いのは仲田さんのおかげ」と言う。
村を離れ、オキコに勤め、夜間は高校で学ぼうと志を立てるが、残業しても手元に残るお金は自らを支えるだけで精いっぱい。家族を思えば、仕送りもしなくてはいけない。学びの機会は将来に譲り、夜もステーキハウスでバイトを掛け持ち。昼夜の仕事で当時60ドルを稼いで仕送りにあて貯金もした。
そのバイト先で運命的な出会いがあった。東京で短大を卒業した女性のアドバイスが今につながる。「一度でいいから東京に行っておいで」と背中を押された。19歳の時に決意を固め、反対する両親に内緒でパスポートを申請し那覇から船で2泊3日かけ晴海埠頭(ふとう)へ。テレビの製造ラインで働き、アルバイトもして働きづめ。「いつも着の身着のままだった」
鉄道の軌道整備の仕事は当初は賃金の高さにひかれた。「1日働いて1万円」。働いてみて天職と気づく。「レール交換して仕上がって一番電車が走る。その時が何とも言えない快感」。身を粉にして働く姿が見込まれた。独立して人の出会いにも恵まれ、今はJR東海の新幹線軌道の仕事を担う。がむしゃらに働き続けて、今やっと自らの半生に向き合う。 (斎藤学)
琉球新報 2025-01-11 [
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