【アーカイブ】王将戦で対局場の鳴らぬベルを押し名人の権威を守る?
この記事は1994年9月17日付朝日新聞朝刊神奈川版別刷りで掲載された記事です。
下記、当時の記事です 「陣屋に行ってみたい」
ずっと考えごとをしていた升田幸三・実力制第四代将棋名人が、東京都中野区白鷺の自宅で静尾夫人に言った。神奈川県秦野市・鶴巻温泉の旅館「陣屋」を、39年ぶりに訪れようというのだ。1991年2月中旬。ある晴れた日のことだった。しかし、静尾夫人がハイヤーを呼ぼうとすると、思い直したように「ちょっと待て。日曜日にでも、息子に運転してもらって行けばいい」と前言をひるがえした。思いついたらすぐ実行に移す升田にしては、珍しいことだった。
升田は約1カ月半後の4月5日、世を去った。
陣屋は、大磯にあった黒田家邸を和田義盛公別邸跡に移築した三井家の別荘で、現陣屋会長の宮崎カズヱさんの夫富次郎さん(故人)が49年、三井系炭鉱会社の元重役で退職金がわりに別荘を与えられたカズヱさんのおじから、買い取った。
昭和将棋史に残る「陣屋事件」は、カズヱさんが社長になった52年に起きた。
木村義雄名人との対決となった第1期王将戦七番勝負第6局。対局前日の2月17日、升田八段はひとりで新宿から小田急線に乗り、鶴巻温泉駅から歩いて対局場の陣屋に向かった。後の升田の主張によると、玄関のベルを押したが、だれも出てこない。番頭が通りかかったが、取り合わない。大事な将棋を指すはずの旅館なのに、宴会の騒ぎが聞こえる。30分ほど待ったがだれも出てこない。我慢が限界に達し、近くの別の旅館にあがった。「今晩はここに泊まり、あすの朝、対局場に行こう」。いったんはそう決めたが、説得に来た理事らとのやりとりの中で怒りがぶり返し、「旅館を変えてくれんのなら、絶対に指さん」と爆発、そのまま対局を拒否し、東京に帰った。
日本将棋連盟の理事会は22日、升田を1年間の出場停止処分にし、理事全員が引責辞職した。しかし、連盟が戦前に分裂騒ぎを起こした時の脱退組の流れをくむ棋士たちや関西の棋士たちが、世論の後押しも得て猛反発した。
問題を一任された木村名人が「升田、理事会双方が遺憾の意を表明し、升田は即日復帰、理事の辞表も受理しない」という裁定を下し、解決した。升田は第6局を不戦敗となったが、平手番の第7局に勝ち、第1期王将となった。木村はこの年、名人戦で大山康晴に敗れ、引退した。
事件の背景に、何があったのか。
このシリーズで、升田は木村に4勝1敗として、すでに勝利を手にしていたが、当時の王将戦は7番すべてを戦う決まりだった。しかも3番勝ち越すと、1段差の実力がある場合のハンディである「半香(はんきょう)」、つまり2局に1局は左香なしで指す「指し込み」制度を採用していた。
実力名人制が始まって以来頂点であり続けた木村名人が香を落とされると知って、新進のA級八段だった高柳敏夫名誉九段は「天皇の玉音放送を聞いた時よりショックだった」という。「当日の朝、起きて最初に『木村名人が香を落とされて指す日だな』と思った」そうだ。
升田は自伝『名人に香車を引いた男』の中で、「打倒木村」に燃えていた升田自身、大いに得意だった半面、「名人」の権威を傷つけることにどうしても抵抗感があった、と回想している。「病気を理由に棄権しようか」。升田は揺れていた。それでも親しい棋士らに励まされ、対局場に赴く決心をした。
王将戦は、名人戦の主催が毎日新聞から朝日新聞に移った翌年の50年、毎日新聞が創設した。名人戦の価値を独占的でなくする狙いで、名人の権威に対抗する過激さが売り物だった。
升田は48年の2、3月、希望に反して寒冷地に対局場を設定され、弟弟子の大山七段に劇的な大逆転負けを喫した「高野山の決戦」以来、毎日新聞への不信感を募らせていた。朝日の嘱託で、名人戦を朝日へ移すのに一役買った升田は、高柳名誉九段や塚田名誉十段と飲むと、決まって王将戦への疑問を口にしていたという。
「積もりに積もった不満が、この機会に爆発した」「私は誤って被告席に立たされたわけだが、将棋界の体質がある程度改善されたことで、十分な代償を得た」(『名人に……』)と升田は書いている。
事件は、升田の想像以上に燃え広がったようだ。毎日新聞の当時の担当者・村松喬氏の著書『将棋戦国史』が明かすところでは、升田が対局を拒否して東京に帰った18日深夜、升田と連盟の最高顧問格の中島富治氏が村松氏を築地の待合に呼び出し、「この騒ぎはなかったことにしよう」と申し出た。村松氏は要求をはねつけ、待合を出た、という。
升田を厳しく批判する村松氏も升田自身も認めているのは、一連の事件で、王将戦創設の狙いが実現し、その存在が大きくアピールされた、という皮肉だ。
事件から4年たった56年、升田は第5期王将戦で今度は大山名人を指し込み、実際に香車を落として快勝した。13歳で郷里を出る時、物差しの裏に残した「名人に香車を引いて勝つ」という書き置きを、現実のものにしたのだ。王将戦がその後、指し込み制度を事実上廃止したため、前にも後にも、時の名人に香車を引いて勝ったのは、升田ひとりである。
升田は79年に引退し、木村は86年に死去。大山は92年にA級在位のまま亡くなった。
陣屋は、将棋のタイトル戦の対局場として使われ継がれている。升田と同い年の宮崎さん、その長女で米長邦雄前名人や中原誠永世十段と同世代の紫藤邦子現社長らが、ずっと対局を見守ってきた。今月8、9日にも、羽生善治五冠王と郷田真隆五段が、王位戦第6局を戦った。
宮崎さんが「初めてお話しすることです」と、図らずも舞台装置を提供することになった陣屋側からみた真相を教えてくれた。実は、玄関のベルは三井邸時代の名残で、既に緑青がふいており、電源も入っていなかった。もし升田が押したとしても鳴るはずがなかった、という。
「そのことは、升田さんも陣屋には何回も来られていたので、知っていたはずです。升田さんは、名人に屈辱を与える対局をどうしたらやめられるか、と悩んでいらしたのではないでしょうか。だから玄関への階段を上がりながら、(ベルのせいにしようと)ひらめかれたのではないでしょうか」
宮崎さん夫妻は、事件についてだれにも話さなかったし、だれからも責められなかった。「大人の了解で、みなさんわかってらした」と振り返る。
木村裁定の後、升田が陣屋を訪れ、色紙を預けてさっと帰った。「強がりが雪に轉(ころ)んで廻(まわ)り見る」とあった。反省の句である。宮崎さんは「わかってますよ、先生。思った通りでしたね」と心の中で答えた。
それから、升田が陣屋に足を運ぶことは、ついになかった。静尾夫人は「あとから思うと、主人は死をさとって覚悟していたような気がします」と話す。死を目前にした升田が、どんな考えで陣屋行きを思い立ち、どんな心境で思いとどまったのか。陣屋事件は、やはり「永遠の謎(なぞ)」と呼ぶにふさわしい。
(段位や肩書は当時)
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東京:朝日新聞デジタル 2025-01-15 [
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