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『義烈空挺隊』ゆかりの普賢菩薩像 平和への思いを後世に【熊本】

戦時中、熊本の健軍飛行場から飛び立った『義烈空挺隊』。
隊員が出撃前に通った銭湯に普賢菩薩像が残されています。
平和への思いを後世に伝えようとこの像を移設・保存する取り組みが進められています。
熊本市中央区黒髪で20年ほど前まで営業していた銭湯『観音湯』。
元は『健康湯(けんこうゆ)』でしたが、あることがきっかけで屋号を変えました。
そのいきさつは、敷地内に立つ普賢菩薩像が知っています。
熊本市東区、今は熊本赤十字病院や県立大学のある場所に、太平洋戦争中、陸軍の健軍飛行場がありました。
終戦のわずか3カ月前にこの健軍飛行場から沖縄に向けて飛び立った特攻隊が『義烈空挺隊』です。
隊長の奥山 道郎大尉率いる136人の隊員の任務は、アメリカ軍占領下の沖縄の飛行場に強行着陸。
機外に飛び出し、敵国の航空機や施設を破壊するというもの。
昭和20年5月24日、輸送に当たる32人を含め168人が12機に乗り込み出撃。
しかし、4機は故障で引き返し、強行着陸に成功したのは1機だったといいます。
8機に搭乗した隊員は全員戦死でした。
隊員たちが熊本に滞在したのは出撃までの2週間ほどでしたが、5人の隊員が訓練の疲れを癒やすために通ったのが『健康湯』でした。
【谷川曹長、荒間伍長、菊田伍長川崎伍長、中本伍長】
銭湯の主人・堤ハツさんは、縫い物を引き受けるなど隊員たちと心を通わせていたそうです。
孫の堤 裕倫さんは幼い頃、ハツさんから彼らの話を聞いていました。
【ハツさんの孫 堤 裕倫さん(61)】
「他にも兵隊さんがお風呂に入っていたが、その中でも特に筋骨隆々の方々で、実は特攻隊の方々だったというのは小さい頃、よく聞かされていた。父(ハツさんの長男)は当時中学生くらいで、一緒に遊んだり、相撲をしたり剣道を教えてもらったりしたと父からから聞いています」
そして、ある日、5人が軍服の正装を着て訪れたといいます。
【堤 裕倫さん】
「『実は、あすには出撃します』ということで『このお金は必要なくなったので置いていく。私たちの供養に役立ててください』という話をしていったと聞きました」
涙にくれたハツさんは、この金一封を元手に戦後すぐ、普賢菩薩像を建て、屋号を『観音湯』に変えて毎日、お参りを欠かさなかったそうです。
義烈空挺隊の展示も行う菊池飛行場ミュージアムの永田 昭館長は銭湯が20年ほど前に廃業し、普賢菩薩像が放置されていることを知り、旧健軍飛行場近くに移設できないかと考えました。
これは義烈空挺隊の出撃前、軍装検査の後、上官に申告をする写真です。
【菊池飛行場ミュージアム 永田 昭 館長】
「これが当時の写真。立田山を頼りに同じ角度がないかと思って(探した)。非常に近いので、このお寺が該当するんじゃないかと見ています。帯山・西原地区に飛行場があったことを伝えるというよりも知らない人が多く、〈地元に痕跡を残したい〉という思いで移設してはどうかということで浄圓寺と堤さんの理解をいただいた」
この写真が撮影された場所の近くに、戦後移設してきた浄圓寺。
当時の写真と浄圓寺からの映像を比べると、かなり近い場所であることが分かります。
住職は普賢菩薩像の移設を快く引き受けました。
【浄圓寺 呼野 淳 住職】
「戦後80年ということもあり、遺族の方、そしてこれから戦争があったことを歴史としてみなさんに伝えていくために形あるものとして残していきたい。つながっていく命に感謝してますます自分の命を大事にできたらと願い、(移設受け入れを)決めました」
今は住宅地となり、健軍飛行場の痕跡はありません。
「隊員の冥福を祈り、平和の尊さを伝えていきたい」。
菊池飛行場ミュージアムは出撃80年となることし5月までに移設しようと募金を募っています。
ゆうちょ銀行 支店179 当座預金口座番号146389
口座名「菊池飛行場ミュージアム賛助会」<br>Thumbnailhttps://www.youtube.com/watch?v=n0YwObiCuhw

TKU テレビ熊本 2025-01-16 [Edit / 編集]

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