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『阪神淡路大震災30年』がれきの神戸を歩いた日―現地取材した記者が振り返る

 たどり着いた神戸は、一面にがれきの野が広がっていた。崩れるはずのないものが倒壊し、方々から上がった火を消す水は無い。救援の行く手は、がれきと渋滞に阻まれる。「ハイテク日本、経済大国日本。インフラは強固だし、何かあってもすぐ救援が来る」。そんな幻想をいとも簡単に打ち砕いた阪神淡路大震災だった。発生から1週間後の被災地を取材した記者が、当時を振り返る。
本州の大動脈福知山 トラックで埋まる
 30年前の1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源とするマグニチュード7・3の地震が発生。神戸市などで震度7、豊岡で5、舞鶴で4を観測した。幸い大きな被害の無かった福知山だが、影響はすぐに出た。山陽方面の道路、鉄道が遮断され、国道9号とJR山陰線が本州の東西を結ぶ唯一の大動脈となり、京都市内から兵庫県内まで渋滞が続いた。
 トラックが道路を埋め尽くす突然の様子に、福知山はとまどうばかり。SNSはおろか、インターネットすら普及が始まる前。携帯電話もめったに持つ人がいない頃だった。現地の様子はテレビなどから断片的に伝わってくるのみ。「カメラの周囲」はどうなのか。自分の目で確かめる機会は、発生から1週間後に訪れた。
 報道とはいえ、直接現地の役には立たない者が地震直後に出向くのは救援活動、物資輸送の邪魔になる。タイミングを見計らううち、神戸へ物資を運ぶ自衛隊車両の24日の便に同乗できることになった。前夜に急いで買った登山靴を履き、福知山駐屯地を午前6時過ぎに出発。食糧を積んだ荷台のため暖房は無い。幌の隙間から吹き込む強風の冷たさに体を震わせながら、被災地の人びとを思った。
 災害派遣車両専用道路となっていた舞鶴道(現舞鶴若狭道)は快調に走れたものの、神戸が近づくと渋滞に飲み込まれ、やがて車列は動けなくなった。新神戸トンネルを抜けて神戸中心部に入ったのは午前9時だったとメモしている。
 前後左右、全周から聞こえる救急車のサイレン。道を譲る車は無い。譲りたくとも、がれきが道にあふれ、車をよけるスペースが無い。倒壊したビルが車線を塞いだままの場所もある。
 少し開けた道路では、全国から駆け付けた消防車両が両脇に並ぶ。エンジンを切った車の中で、隊員たちが寒さに体を丸めて仮眠を取っていた。
 大火に見舞われた長田区では、「どの方向を向いても焼け落ちた廃虚」という惨状に言葉を失った。
 撮影した写真の1枚には、1週間を経てなおくすぶる白煙が映っている。
コンクリート壁にバール打ち付け
自衛隊救助活動にまともな装備なく
 福知山駐屯地からは連日500人を超える人員が神戸へ派遣されていた。灘区の宿営地で目にしたのは、冷たくなった白米と味付けのり、ゆでたまごだけの隊員の食事。おかずの缶詰(携行食)は被災者優先で全部配ってしまっていた。隊員たちに聞いても、待遇に不満の声は無かった。それでもペンとノートを持っていない時には、自分たちが被災者や被災地の外からどう見られているのかを、こっそり尋ねられた。
 自衛隊という組織がデリケートな扱いだった時代。行政からの要請が無いと出動できない決まりだったが、福知山駐屯地は17日朝に偵察隊を「訓練」名目で出動させ、本体も夜には神戸へ到着。2日間は不眠不休、その後も交代で仮眠をとりながら救助作業にあたったという。
 地震を想定した装備は無く、分厚いコンクリート壁をバールでひたすらたたき、穴をあけたと聞いた。
教訓生かされた後も「想定外」は起きる
 福知山に戻ってからは民間の工事関係者たちからも、復旧作業について話を聞いた。大雪で停電した福知山の山間部で電線の復旧作業にあたっていた人たちは、休む間もなく神戸へ駆けつけた。旧福天1市3町からも消防、水道、ガスなどの職員が派遣されている。きれいごとばかりではなかった現場。被害の大きさに対して、できることが限られ、みな、もどかしい思いを抱えながら懸命に作業にあたっていた。
 後年、教訓は生かされさまざまな仕組みの見直し、装備の充実などが行われた。それでもなお「想定外」のことが起きることを、その後の震災が証明している。次の地震はいつ、どこで起きるか分からない。
写真(クリックで拡大)=がれきの山と化したまち(1995年1月24日撮影、神戸市長田区で)

両丹日日新聞 2025-01-17 [Edit / 編集]

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