「なんで置いて逝ったんや」親失い封印した震災の記憶 今は語り部に
阪神・淡路大震災で両親を目の前で亡くした。当時は小学1年。前田健太さん(37)=滋賀県草津市=はその体験を人前で語ることがずっとできなかった。3年前、ようやく話すことができた。今は語り部として活動し、被災地へボランティアにも行く。何が転機となったのか。
震災を境にすべてが変わった。
1995年1月17日早朝。
7歳の前田さんは、ぐらっとした揺れで目が覚めた。2階の部屋でいっしょに寝ていた両親の姿がない。部屋を出ると階段が埋まっていた。階段手前の小さな窓から、はしご車で救出された。
パジャマに裸足。めちゃくちゃ寒かった。周囲はまだ暗い。ガスと土ぼこりのにおいがした。「パパー、ママー」。叫んでも返事はなかった。
暮らしていたのは西宮市の古い木造住宅。1階がぺちゃんこに押しつぶされていた。
ずっと泣いていた。「健太くん、ちょっと来て」。近所のおばちゃんに呼ばれた。歩道に畳が2枚敷かれ、毛布が掛けてあった。毛布の端から母のパジャマが見えた。19歳の姉は泣き崩れ、17歳の兄はぼうぜんと立ち尽くしていた。
3日後、両親の葬式と火葬をした。震災後、初めて母の顔を見た。きれいで、眠っているようだった。「お父さんの方はやめとき」と言われた。火葬炉の扉が閉まるとき、バイバイと手を振った。まだ、会えるかもしれないと思った。
仮設住宅で姉・兄との3人暮らしに 仮設住宅で姉と兄の3人で暮…
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滋賀:朝日新聞デジタル 2025-01-20 [
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