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Wikipedia毛利元就
毛利 元就(もうり もとなり)は、戦国時代の中国地方(山陽道・山陰道)の武将、戦国大名。安芸毛利氏の第12代当主。安芸国高田郡吉田荘の吉田郡山城を本拠地とした国人である毛利弘元の次男。
毛利氏は鎌倉幕府政所の初代別当を務めた大江広元の四男・毛利季光が父から相模国愛甲郡毛利荘を譲られて「毛利」の名字を名乗ったことに始まっており、元就も朝廷から官位を与えられた際には「大江 元就」(おおえ の もとなり)という氏名で記されている。家紋は一文字三星。
策略家として知られる元就は、一代で一国人領主から勢力を伸ばして安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6ヶ国を支配する中国地方の大大名となった。
----毛利 元就(1497年-1571年)-----
室町時代後期から戦国時代にかけての安芸(現在の広島県西部)の国人領主・戦国大名。本姓は大江氏。
1497(0歳) 毛利弘元の次男として生まれる。
1500(3) 兄の興元が家督を相続。父の弘元と元就は猿掛城に移る。
1501(4) 元就の母が死去。享年34。
1506(9) 父の弘元死去、享年39歳。元就が猿掛城主となる。
1511(14) 元就元服。
1515(18) 兄の興元に息子の幸松丸が生まれる。
1516(19) 兄の興元死去。享年24。興元の嫡男幸松丸が家督を相続。毛利は高橋久光の影響下に入る。
1517(20) 元就の初陣、守護の武田元繁を破る。
1521(24) 高橋久光が三吉との戦で討ち死。
1522(25) 高橋興光に協力して三吉との戦、青屋城を陥落させる。元就が山県氏の壬生城を陥落させる。安芸坂城を攻めて陥れる。
1523(26) 安芸西条鏡山城を攻めて陥れる。当主の幸松丸が死亡、享年9。元就が毛利家を相続する。長男の隆元誕生。
1524(27) 異母弟の相合元綱を殺害する。佐東銀山城の守備戦で勝利。
1525(28) 尼子から大内氏に寝返る。米山城主の天野興定を麾下にする。
1529(32) 高橋を滅ぼす。出羽祐盛を麾下にする。安芸松尾城を攻め落す。
1530(33) 二男の元春誕生。
1533(36) 高松城主熊谷信直を麾下にする。三男の隆景誕生。
1534(37) 元就の娘が宍戸隆家に嫁ぐ。備後宮城主宮直信を降伏させる。
1535(38) 備後多賀山城主多賀山久意を降伏させる。備後甲山城主山内直信と和を結ぶ。
1540(43) 尼子晴久が30000の大軍を率いて郡山城を攻める。
1541(44) 吉田郡山城の戦いで勝利、尼子軍撤退する。尼子晴久勢退却。佐東銀山城を陥落させ安芸武田氏を滅亡させる。大内への人質であった嫡男隆元が戻る。
1542(45) 大内義隆の月山富田城の戦いに従軍、大敗。
1543(46) 尼子への遠征。次男元春元服。
1544(47) 尼子晴久が比叡尾山城の三吉広隆を攻める、援軍の元就が撃破。三男隆景が竹原小早川家の後嗣となる。
1545(48) 元就の正室死去。享年47。
1546(49) 元就、家督を毛利隆元に譲る。
1547(50) 二男元春が吉川家を相続。
1548(51) 大内の配下として、山名氏の備後神辺城を攻める。
1549(52) 元就、大内義隆に謁見。嫡男隆元、内藤興盛の娘と結婚。備後神辺城を攻め。
1550(53) 元春、新庄小倉山城に入る。家中の井上党を成敗。
吉川興経父子を殺害する。次男隆景、沼田小早川家を相続。
1551(54) 陶隆房が主の大内義隆を攻める。折敷畑の戦いで陶軍に勝利。
1552(55) 大内の跡を大友晴英が継ぎ大友義長と改名。
西条槌山城を攻略、菅田宣実降伏。
志川滝山城を攻略、宮光寄逃走。
1553(56)備中の成羽城主三村家親を助けて穂田為資の猿掛城を陥落させる。高杉城を陥落させる。旗返城を陥落させる。甲山城主の山内隆通、多賀山城主の多賀山通続を麾下にする。
1554(57) 吉見正頼の居城の三本松城を攻撃。
1555(58) 陶晴賢が重臣の江良房栄を殺害。厳島の戦い
1557(60) 大内義長を討ち防長を攻略。大内滅亡。
1560(63) 尼子晴久死去。義久が跡を継ぐ。
1561(64) 大友との戦、豊前を勝ち取る。
1562(65) 富田月山城を包囲。
1563(66) 大友との講和が成立。嫡男隆元死去。
1566(69) 尼子義久が降伏、月山富田城落城。尼子滅亡。*月山富田城
1571(74) 高瀬城を攻略。元就死去。享年75。