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Wikipedia永倉新八
永倉 新八(ながくら しんぱち)は、幕末の武士(松前藩士、新選組隊士)。本姓は長倉、諱は載之(のりゆき)。
松前藩を脱藩後、新選組に入隊し、二番隊組長および撃剣師範を務めた。明治期に杉村義衛(すぎむら よしえ)と改名し、樺戸集治監の撃剣師範を務めた。
近藤らとともに浪士組に参加。新選組結成後は、二番組組長や撃剣師範を務めるなど中枢をなした。元治元年(1864年)の池田屋事件では、近藤や沖田総司らとともに池田屋に突入。沖田が昏倒し、藤堂平助が負傷して離脱、永倉も左手親指に深い傷を負ったなか、防具がボロボロになり刀が折れるまで戦った。
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは、決死隊を募って刀一つで突撃する豪胆さをみせた。江戸に退却後、新選組改め甲陽鎮撫隊として板垣退助率いる御親征東山道先鋒総督軍(主力部隊は土佐藩迅衝隊)と甲州勝沼の戦いで戦うが撃破されて江戸へ敗走。江戸へ戻った後は近藤らと意見衝突して袂を分かつ。その後、靖兵隊(靖共隊)を結成し、北関東にて抗戦するが、米沢藩滞留中に会津藩の降伏を知って江戸へ帰還し、その後、松前藩士(150石)として帰参が認められる。明治3年(1870年)、家老・下国東七郎のとりなしで藩医・杉村介庵(松柏)の娘・きねと結婚して婿養子として松前に渡る。